ひまわり2 太陽

名所・旧跡には、神社、仏閣,街道、産業・土木・文化遺産等が数多く存在します。
それぞれの名所・旧跡には、そこにある「わけ」と「意味」があります。城南の北端をはしる東海道、東から揖斐川、南の城南海岸、西の町屋川に囲まれた城南の地に派生するできごとには歴史の重みを感じさせてくれます。

城南神社

古くは神明宮と称していたが、明治41年(1908年)4月30日に旧城南村大字36社を合祀して、城南神社と改称になりました。
城南神社の鳥居は、伊勢神宮のご遷宮ごとに皇大神宮(内宮)の一の鳥居、古殿舎の一部を下賜されており、江戸時代なかごろから続いているといわれている。境内の手水鉢には嘉永4年(1851年)の銘が記されている。
当神社の御祭神は天照大御神であり、垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が天照大御神の奉斎場所を求めていた途中で立ち寄ったと伝承されている格式の高い、由緒ある神社である。
垂仁天皇14年皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の御杖代(みつえしろ)としてお仕えされて、伊勢国桑名に行幸され、この時、国造の建夷方命(たけひなかたのみこと)が神戸を献られました。桑名の神戸は10数ヵ村の地域からなり、安永から江場にかけてが、神戸の中心と伝えられております。古くは、江場村と安永村の境を神戸川が流れておりました。
(昭和30年頃に行われた土地改良以前には、川の姿が残っており、安永、江場、貝須へと流れておりました。)
なお、平成22年まで使われていた拝殿の鬼瓦が境内に残されており、迫力を感じさせております。
又、元城南村地内には、和泉神明社、小泉神明社、福江神明社、萱町神明社、福地神明社、大貝須春日神社、小貝須神明社、地蔵神社、東野神明社、城南干拓神社が、ご鎮座になっております。和泉神明社、城南干拓神社にも伊勢神宮の古材が下賜されている貴重な社となっています。

晴雲寺

清浄山晴曇寺と号す。浄土真宗大谷派。
初代明西上人が大永2年(1522年) に安永の地に開基以来、500余年、現住職で第十五代を数えている。江戸時代の参勤交代の際、大名行列が立ち寄り、衣服を正して城下に入ったと伝えられる由緒ある古刹であり、幾多の天災、戦国乱世を経て、明治維新の際には、赤報隊事件にまきこまれる等の沿革を有している。
昭和の大改修として、2か年有余にわたる本堂百年大修復工事が昭和63年に完成した。その際、本堂の屋根裏から江戸時代に使われていたと考えられるカゴがみつかり、平成25年5月蓮如上人五百回忌と親鸞上人七百五十回忌に合わせて修理され、保存されている。
又、境内には、句碑「蝶々やさりとてはなに長うゐす二草翁」が建立されている。

西福寺

龍宝山西福寺と号す。浄土真宗本願寺派。
西福寺の由来は、加賀百万石前田利家公の次男利政が関ヶ原の合戦に豊臣の軍(西軍)に加勢し、敗れ、その後出家して僧(出家後利円と改名)となり、各地を回って修行され、松寺村に当庵を結んだ。その後利円の子利玄に至り、桑名の萱町法盛寺地内に届住され、寛永14年(1637年)正月17日、本山良如上人より、本尊及び寺号を授与された。現在地には明治45年に本堂が建立され、大正2年に入仏式が行われた。尚、堂内の山額「龍宝山」は松平定信筆である。
西福寺の来歴は、梵鐘に詳しく記録されている。梵鐘の銘文は慧雲氏の撰弁書であり、戦時下金属の供出ですべての寺院の梵鐘は供出されたが、当時知事の計らいで西福寺の梵鐘は、前田慧曇氏の詩文が刻まれている理由により供出を免れ、後世に保存するようにと今日に至っている。
前田慧雲氏(昭和5年没)は当寺出身の仏教学者で、漢学に秀でておられ東京大学の講師を勤めた後、東洋大学、龍谷大学の学長を務められ、三重県での文学博士第1号となられた。
慧雲氏の著書には、「大佛教史論」、「大日本読経」、「本願寺派学事史」、「印度浄土教史」など多数あり。
(「和泉史」による)

白魚句碑• 浜の地蔵堂

当史跡地は、浜の地蔵(龍福寺)として知られており、句碑4基、塚1基、庚申塔1基の碑がある。明治後期までは揖斐川河中の突き出たところにあって、郊外の景勝地として人々が行楽に訪れる地であり、白魚漁の中心地でもあり、往来する船のための常夜灯もあった。しかし、明治中期からの河川改修とともに新しい堤防ができると地蔵堂も堤防上に移った。
「野ざらし紀行」の松尾芭蕉が木因(ぼくいん)とともには貞亨元年(1684年)この地に遊んで「雪うすし白魚しろき事一寸」の句を残した。この句を書いた木札が近くの個人宅に所蔵されている。また後日推敲された「明けぼのやしら魚白き事一寸」の芭蕉真蹟短冊が春日神社に残されている。当地には天明年間(1781-89) に白魚塚が建てられ、寛政5年(1793) に「闇の夜や巣をまとはして鳴くちとり」が建てられ(現存)、流失後発見され現在地に移転した。明治36年(1903) に上述の「明けぼのや~」の白魚句碑も建てられた
伊勢湾台風で地蔵堂もろとも流失したが、昭和39年に現在の句碑等が再建された。

安永の常夜燈(伊勢両宮常夜灯及び里程標)

七里の渡しから約1里(4km)の旧東海道の地点にある。町屋川の清流に臨み、上流かの遊舟や筏と茶店などで賑ったという。
常夜燈は昔の灯標で伊勢神宮への祈願を兼たもので、東海道を偲ばせる唯一の遺物といえる。
文政元年(1818)に桑名や岐阜の材木商が連名で寄進石工は桑名の根来市蔵(石市)ほかとある。
常夜燈の横にある「里程標」は明治26年(1893)建立で正面に町屋川中央地桑名郡と刻まれ左右に三重県庁までの11里30町余(約47km)や桑名郡役所までの距離が示されている。
付近は安永立場といわれ、茶店では「安永餅」が売られていた。店跡は現在料理屋「玉喜」「すし清」が名残である。又、両店とも藤の花の見事さが有名である。
※「安永餅」は桑名の代表的銘菓で、「ともち」「牛の舌もち」とも称され、現在は、「永餅屋老舗」(1634年寛永11年創業)と「安永餅本舗柏屋」の2業者がある。

江場松原(杉原)跡

七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、大福を過ぎて、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られたという。
昭和34年の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は一本の松も残っておらず、家並みとなり、一部は日立金属の工場庭園となっている。

俄連の墓

明治維新後に村の制度が変えられ、これまでの庄屋制度が廃止され、大正初期に総代制に変わった。
当時農家は、 1,6 の日の午後は、百姓仕事を休みとしていた。女は家で自由な時間を楽しんでいたが、男は集会所に集まって将棋、囲碁などを楽しんだが、これもやらない人は花札(とばく)をやっていた。
そのうち賭事におぼれるようになって家庭を顧みない者が出るようになった。
村の総代(寺本勘七氏)は、これを憂いなんとかこれに代わるものはないかと苦渋したあげく、同憂の人達と話合って、芝居俄をやるようにみんなに勧めた。これに賛同した人達が先にたって、歌舞伎、三味線を習いだされた。演目は、赤穂四十七士浪士の芝居、新派のホトトギス等が取り上げられ熱心に稽古に取り組まれた。
この様子を見聞きするうちに他のみんなもこぞって参加されるようになった。
着物、かつら等を専門家に借用する等大変な熱の入れようであった。
10月17 日の秋祭りに俄芝居が披露されることとなり、稽古は秋から彼岸にかけて行われた。
なお舞台は農閉期に各戸から米麦をつくウスや縁台を借りて丸太、スノコを使って作られた。
だんだんと軌道に乗ってくると他所からも公演を依頼されるようになり、その出演御礼で小道具等も新調されていった。
俄連の方々が物故者となられるとその都度ごとに追悼法要を行っていたが、後には墓の設置へと発展していった。
それが和泉の墓地内にひときわ目立つ「俄連之幕」である。
(この項は「和泉史」より転載させていただいた)

後藤栄三郎翁銅像

桑名市大貝須城南漁協事務所隣接地に建立(昭和4年4月10日)
誌銘には、桑名城南に偉人出ス。其ノ行イ頗ル二宮尊徳ノ如クアリ以下の記載がある。弘化5年(1848)1月1日生

明治4年大貝須新田に分家、26年城南村村長になり、その後、県議会議員などを歴任。

水産養殖を推奨し、城南漁業協同組合を創立し、ノリ養殖に力を注いだ。
(桑名市史補編主要墓碑集覧に掲載)

伊勢湾台風殉難の碑

伊勢湾台風の際に死亡した建設省関係者1 2名を弔う碑。揖斐川右岸堤防の最南端に立つ。 昭和 36 年 9月 26 日建立。

<碑文>
友はここにねむる 建設省の全職員はこの かなしみを くりかえさないよう祈りをこめて これをたてた
昭和 34 年 9 月 26 日当地方を襲 った伊勢湾台風は、 木曽三川下流部の堤防を寸断し、多くの尊い人命を奪った。 ここは木曽川下流工事事務城南出張所導水堤工区のあったところで、 このエ区事務所におい て保守警戒に当たっていた方々は、 この夜半の異常高潮と暴風雨のため前面の堤防が4か所にわたり決壊し、 襲いくる濁流に呑まれ悲しくも殉職されました。 又警戒のため出動された夫君の留守を守り避難の途中激流に抗しきれず家族もろとも殉難された方々を ともにまつり 、 再びこの悲しみを繰り返さないよう祈りをこめて 建てられたもの であ ります。 両脇にしつかり と愛児を守ろう とする厳しい母の姿を中心に身命を賭して職場に散った崇高な責任感を象徴したものであります。(碑文のままを記載)

伊勢湾台風不忘碑

伊勢湾台風の被害を永く忘れぬための碑。
揖斐川右岸堤防から大貝須方面へ 旧堤防へと続く三叉路脇に立つ。
昭和34年9月26日夜、 伊勢湾台風は大きな爪痕を当地方に残して去った。 雨来既に3年寸断された海岸及び河川堤防は旧に倍し堅牢強固なものに改良構築せられた。 ここに、 当時の犠牲者の霊に対し心から哀悼の誠を捧げるとともに この未曾有の災禍を永く市民の心 に銘し将来再びかかる災禍のないことを念じ本碑を建立するものである (碑文のままを記載)

昭和47年9月26日建立

城南干拓開拓史の碑

この地は、安政4年の大津波以来荒地として放置されていたが、太平洋戦争後の食糧難を克服するため、 食糧の増産をめざし、 昭和21年城南干拓事業として着手され苦節11か年余の歳月を費やし、 昭和32年度に完成した。 70名の入植者により城南関拓事業協同組合を設立し、農耕を始めた矢先、 昭和34年の伊勢湾台風により大災害を蒙り、 55名の尊い犠牲者を出した。 災害後3か年の短期間に復旧を成し遂げ 、城南開拓事業協同組合を解散するにあたり、 犠牲者の冥福を祈り、城南干拓地の繁栄の礎として、「城南干拓開拓史の碑(桑名市長 水谷喜治筆)」が建立された。

(桑名市福岡町地内)